【米国生まれのニューヒーロー】
ヒップホップのダンスもこなす米国生まれのニューヒーローが、日本の若者に「演歌のこぶしがカッコイイ」ことを教えてくれた。
最初に覚えた演歌は、3年前に亡くなった日本人の祖母、多喜子さんが歌っていた美空ひばりの「越後獅子の唄」。多喜子さんは米兵と結婚して渡米した。
「おばあちゃんに喜んでもらおうと、村田英雄さんの『無法松の一生』とか、二葉百合子さんの『岸壁の母』を覚えました。子供のころはメロディーだけで、歌詞の内容は理解していなかった。ただ、歌っている姿が魅力的で、すごく心をこめていることは伝わってきました」
日本語は実に滑らかだ。演歌歌手になりたい一心で2003年に来日した。その前に地元ピッツバーグの大学でコンピューターを専攻したのも「簡単に演歌歌手になれるわけではない。いろんな仕事をしながらカラオケ大会に出たりして、日本語の勉強と演歌、それにダンスを続けよう」という強固な意志からであった。
【プロ入りの後押しをした恩人】
3年前、大阪でコンピューター関連のエンジニアをしながらチャンスをうかがっていた。当時、足しげく通ったのが扇町公園近くの沖縄料理店「てぃーあんだ」。“おばぁ”と親しまれる店長の太田美子さん(70)が振り返る。
「ウチの店の子とコンビでダンスを踊ってました。ふるさとを離れてタイヘンやなぁと思って、練習が終わるといつも『まかないを食べていきなさい』と誘っていたんです。ジェロ君は食べ終わると、こちらが『ええのに…』と言っても必ず洗い場に入って後始末をしてくれました」
ある日、ジェロを誘って店のみんなとカラオケに行き、太田さんが十八番の「越後獅子の唄」を歌うと、いつの間にか隣から美声が聞こえてきた。
「あまりにうまいので、10曲ぐらい歌ってもらって『あなたは歌手になりなさい』と言うたんです。私が言わんでもなっていたでしょうけど(笑)」
太田さんは、ひそかに常連客のFMラジオ局のスタッフにジェロのテープを渡すなどプロ入りの後押しをした恩人の1人である。
「デビューが決まると、わざわざ『明日、CDを出します』と報告に来てくれたので、大好きな角煮をふるまいました。また洗い場に行こうとする。ホンマにエエ子です。今、心配なのは、やせていく姿。睡眠と栄養だけには気をつけてほしいです」
【憧れの人は坂本冬美】
ジェロの憧れの人は坂本冬美だ。来日直後にNHK「のど自慢」で「夜桜お七」を歌い合格したこともある。その坂本が言う。
「ジェロ君に私のファンだと言われると、何だか気恥ずかしい感じですね。ジェロ君のブレークによって、演歌界が変わっていくのではないかと、私だけでなく、みんなが期待しています」
作詞家、秋元康とのコンビで、デビュー曲「海雪」を作曲した宇崎竜童はジェロにこうアドバイスした。
「アメリカのルーツを大切にして、これから自分なりのこぶしを見つけなさい」
ジェロがしみじみ、つぶやいた。
「光栄です。何年か経って、そうなれたらいいと思っています」
憑依と憑依体質